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手形の歴史

手元に現金がなくても商品の買付けができる手形は、今や商取引に欠かせない存在です。では、この手形にはどのような歴史があるのでしょうか。

手形は、12世紀のイタリアで誕生

手形の始まりは、12世紀頃のイタリアであったというのが通説です。当時のイタリアは、ヨーロッパ文明の中心地であり、東西を結ぶ交通の要所でもありました。そのため、イタリアには他の都市からの人やものがたくさん集まりました。そういったなかで取引を円滑に行うために、異なる通貨を両替する両替商が誕生しました。
地中海貿易の支配権をめぐって争いが絶えない時代だったので、金貨や銀貨の流出が厳しく制限されていました。しかし、商業圏が広くなるにつれて遠隔地の相手と取引を行なうケースが増え、遠隔地取引の利便性を高めるシステムを望む声が高まっていきました。
そこで、考えられたのが手形です。既に誕生していた両替商は、都市国家ごとに業界団体を作っており、お互い両替商同士の取引関係がありました。手形はこのコミュニティを利用したのです。

まず、商人が商取引にあたって他の都市へ送金する際、自分の都市の両替商に自国の通貨でお金を渡し、その両替商から「送金先には、送金先の通貨で支払う」という証書をもらいます。これを取引先へ送ると、取引先の商人は、その証書を自国の両替商に持ち込み、自国通貨で支払いを受けることができるという制度でした。
証書1枚を送れば商品売買の決済と通貨間の両替が一度にできるので、実際に現金を送るよりも安全で早い方法でした。
ただし、この証書が有効であるためには、公証役場で証明してもらう必要があったため、手間と費用がかかりました。
そこで、13世紀になると、両替商同士の私製の証書でもよいということになり、利便性が向上しました。このようにして、遠隔地間の商取引が円滑になり、手形はイギリスやオランダなどを中心に普及していきました。

日本の12世紀にもあった手形のようなシステム

同じ12世紀ごろ、鎌倉時代の日本にもこれに似たシステムがありました。遠隔地へお金を送る時に、「替銭(かえせん)」という証書を替銭屋に振出してもらい、替銭屋にお金を渡します。
そして、その証書を遠隔地の受取人に送ります。受取人は指定された現地の支払人のところへ行って証書を呈示すると、その場でお金を受取ることができます。
また、支払日や約束文言の記入、押印をもらって(裏付といいます)、別に指定された日に改めて受取ることもあったようです。なお、債権や荘園を持つ人が、債権や年貢を担保にして替銭を振出し、利息を引いた分のお金やコメを借りることもありました。

ところで、手形という言葉の本来の意味は、文字通り「手の形」で、何かを約束する時にその証拠として手の形を押したことから始まっています。鎌倉時代には通行札など印判を押す書類をすべて手形と呼んでいたようですが、江戸時代になると概ね現在と同じ意味で使われるようになりました。

江戸時代には、江戸・大坂(現・大阪)間を中心とした信用制度が発達しました。全国の物産が集まる大坂では銀貨が使われていましたが、これは重量があって大口取引には不便であり、また、銀貨の絶対数が減少したこともあり、商人の間では「銀目手形」で決済されることが多かったようです。
銀目手形には両替商が預金者に対して発行した預り証としての「預り手形」と、預金者が両替商に対して預金を引当に振出した「振り手形」があります。振り手形は、第三者へ譲渡することもできました。

明治時代、手形制度の法制化から国際的な統一ルールへ

江戸時代から手形のニーズは高く、大坂の両替商によってその仕組みは確立されていましたが、現在の手形制度は、明治時代の初期にヨーロッパから導入したものです。
明治初期には、国立銀行が預金者に発行する手形が盛んに流通し、一時は通貨の役割を果たすまでになっていました。

ところが、明治政府が国立銀行以外の手形・小切手の振出を禁止したため(国立銀行条例、明治9年)、両替商が破綻するなど信用システムに混乱をきたしました。それを受けて、西南戦争(明治10年)以後に手形制度の法制化が進められ、明治15年に近代手形法の先駆となる為替手形・約束手形条例が制定されました。
次いで明治23年には旧商法の中に手形・小切手に関する規定がおかれ、明治32年(1899年)に商法の第4編手形の規定として継承されました。

世界的な動きとしては、第一次世界大戦後に手形法の国際的な統一が研究されました。昭和5年(1930年)に国際連盟経済委員会がジュネーブで国際会議を開き、手形法統一条約が成立しました。
日本もこの条約に参加し、手形に関する規定をこれまでの商法から切り離し、昭和7年(1932年)に手形法を施行しました。

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